2007年03月19日

ヤマト第一作

1999年10月、今よみがえる戦艦大和がテレビ朝日系で放映されたのです。
それは、海底に横たわる大和についての知見をより深くしてくれたのです。
宇宙戦艦ヤマト第一作でも描かれたように米機動部隊による大規模な航空攻撃でした。

しかし、これは日本のみならず、アメリカにとっても不本意なものでした。
じつは、大和出撃を知ったアメリカ軍沖縄攻略総司令官スプルーアンス大将は、デイヨー少将が指揮する戦艦部隊の出撃を命じている。
これにより、戦艦同士が戦う最後の艦隊決戦が起きるはずでした。
だが大和は九州南東沖で進路を大きく西へ変えたのです。
そのため、大和の行動は日本海軍が軍令部を佐世保軍港に移すための移動ではないですかと考えられたのです。

そうだとしたら、戦艦部隊で大和を攻撃することは不可能です。
また、このまま放置することはせっかく外洋に出てきた大和を撃沈するチャンスを逃すことになる。
かくして、スプルーアンス大将はミッチャー中将が指揮する第58任務部隊に出動を命令したのです。
航空攻撃によって大和を沈める決意を固めたのです。
その結果、やはり大和は沈んだであろう。
だが、戦艦として建造されたのです以上、戦艦と砲火を交えた上で沈んだ方が、まだ本望であったのではないか。
そう思いまなるのも人情というものだろう。
ニックネーム 宇宙戦艦ヤマちゃん at 21:56| ヤマトの歴史

ヤマトブームの始まり

1970年代後半に巻き起こったヤマトブーム、それは様々なブームの母体となりました。
まず、今に続くアニメブームの原点がヤマトでありました。現在も続くアニメ誌の中で1番の古株、アニメ−ジュの創刊が1977年。
そして、それを前にしてさまざまなアニメムックが登場しました。
ただ、ここではまんが映画がアニメと呼ばれるようになり、小学校高学年以上の年齢になっても見てもいいんだ、という雰囲気が同じ世代の者たちの間でまずつくられたのです。

当時、まだ一部の親たちからは白眼視されていましたが、ラジオの深夜放送が若者の文化として定着していました。
聴取者の投稿で作られるこの手の番組は、当時としては若者のはやりをいち早くとらえ、それにレスポンスを返してくれるメディアとして一種のオピニオン・リーダーでもありましたわけです。
そんな中でアニメについて語る投稿が読まれ、主題歌がリクエストで流れ、時に声優がゲストとして出演したり、当時をリアルタイムで過ごした人には、ボクらだけの文化として心を熱く燃やしたことを覚えている人も多いんじゃないですか。
そしていわゆるヤマトブームというのも、そのラジオ番組に対するほとんど組織票と言える投稿で形作られた側面もあります。

一度ブームが到来すると、状況は一変する。
そんな世情を嘆く声はやわらぎ、アニメブームを当て込んだ商品が次々と提供されるようになりました。
先に上げたアニメのムックやアニメ誌の創刊、またラジオでもヤマトのみならずガッチャマンといった根強いファンのいるアニメ、さらにはクィーン・エメラルダスといったマンガ作品までがオーディオドラマという形で公表されていったのです。
ニックネーム 宇宙戦艦ヤマちゃん at 21:55| ヤマトの歴史

戦艦の定義

戦艦の定義の一つは、自分の持つのと同じ威力の主砲弾の攻撃に耐えることです。
その意味で大和はまさに不沈を誇る物となるはずでした。
ただし、艦体のすべてを防御することは不可能なので、バイタルパートと呼ばれる最重要の中核部分を重点的に防御する方式が取られたのです。
手っ取り早く言えば、防御力の優れたのです巨大な箱を中心に置き、その中に機関や砲、あるいは指揮所といった設備を納めているわけです。
宇宙戦艦ヤマトにもこの構造が踏襲されていると考えれば、あれだけボロボロになってもなお戦闘力を失わなかったり、短期間に修理することができたのも理解できます。
 
この戦艦大和が突貫工事で完成したのは昭和16年12月16日です。
日本が真珠湾に攻撃を加え、対米戦に突入して一週間あまり後のことでした。
ちなみに、突貫工事のため旗艦施設の新設改造は見送られたのです。
そこまでして完成が急がれた大和でしたが、それでも戦いの主力はすでに航空機と空母に移っており、大和は沖縄へ向けた菊水作戦まで活躍らしい活躍を見せることはなかったです。

そして、沖縄へ向かってまもなく。
九州の西南沖で米機動部隊の猛攻を受け沈没したのはヤマト本編でも描かれているとおりでした。
なお、この時大和には軽巡洋艦矢矧以下、駆逐艦霞、冬月、初霜、磯風、濱風、涼月、雪風の7艦が随伴したが、矢矧、初霜、磯風、濱風は大和と運命をともにしました。
この一連の戦いは、宇宙戦艦ヤマト完結編のラストのモチーフとなったことでも知られています。
ニックネーム 宇宙戦艦ヤマちゃん at 21:52| 戦艦について

ブルーノアとヤマト

ヤマトが生んだものはヤマトでした。
というとなぞかけみたいだけど、劇場版宇宙戦艦ヤマトが巻き起こしたブームが直接的に生み出したと言えるのは劇場版で、あるいはTV版として制作されたヤマトシリーズでした。
その詳細については情報班資料室を見てもらうとして、さらに直系と言える作品が二つ試みられています。

そのひとつは宇宙空母ブルーノアです。
これは、1979年夏にテレフューチャーとして放映されたのです。
宇宙戦艦ヤマト新たな旅立ちと翌1980夏年に公開されたヤマトよ永遠にの間、1979年10月13日から翌年3月29日にかけてポストヤマトとして制作されたのです。
ヤマトのガジェットを取り込んで作られたのです意欲作でした。
なにせ、舞台は移民船で攻めてきた宇宙人に占拠されたのです。

しかも、宇宙空母と言いつつブルーノアが実際に宇宙へ旅立つのはラスト数話で、それまでブルーノアは潜水空母として地球の海を転戦し、宇宙空母に改造する能力のある基地を目指というものでした。
なかなかこった設定で、メカも斬新でしたブルーノアですが、しかし潜水艦がメインのためか、はたまはた宇宙ものに慣れすぎたためか、受けなかったのです。
ニックネーム 宇宙戦艦ヤマちゃん at 21:44| ヤマトの歴史

ヤマト帰還後の変化

宇宙戦艦ヤマトが完結した1983年から2年たった1985年です。
ヤマトの持つファンタジー性をさらに強化した宇宙を飛ぶ帆船の物語が作られたのです。
オーディン 光子帆船スターライトでしたが、これもまたヤマトの呪縛から逃れたとは言いづらく、人気の方も今ひとつでいした。
あからさまに続編が期待されるラストでしたが、その後の話は聞かないです。

ガミラス戦役時、日本に地球防衛軍司令部が置かれていた関係で、ガミラス戦役中からヤマトの帰還後も引き続き軍事技術の研究や宇宙艦艇の設計は日本において進められたのです。
そのため、この当時の各クラスの一番艦から1戦隊を構成するのに必要な最初の数隻は日本名がつけられる事となりました。
イスカンダルからもたらされた数々のテクノロジーはヤマトに用いられただけでなく、ヤマト出発後の地球防衛艦隊再建に生かされたのです。まず波動エンジンを搭載した護衛艦が建造され、ヤマト帰還までの地球防衛の中心を担ったのです。
護衛艦の成功を受けて、駆逐艦、パトロール艦、巡洋艦と順次関係を拡大し、最終的にはアンドロメダ級に至ったのです。

この時代の地球艦艇の特徴は拡散波動砲装備と脆弱な対空火力、強力に推し進められた自動化であるがそれらは必ずしも好結果をもたらしたとは言い切れないのです。
しかしながら、アンドロメダ級をはじめとして、この時代の地球防衛艦隊は後年の艦隊に比べて規模も大きく、計画のみに終わった航空母艦や防空駆逐艦も考慮に入れれば、戦力のバランスも取れており、打撃力、防御力ともに最強であったことは間違いないです。
ニックネーム 宇宙戦艦ヤマちゃん at 21:41| ヤマトの歴史

メカデザインが与えたもの

ヤマトの登場以降、メカデザインは一時期、突起物としてのブリッジと回転砲塔がなければ宇宙戦艦に見えないほどでした。
そして、それまで空の延長として捕らえられることが多かった宇宙が、海として描かれるようになりました。
それまで、宇宙を飛び回るのは円盤かロケット、あるいは宇宙船と言っても飛行機などをモチーフとしたものが多かったのです。
戦闘も飛行機同士の空中戦を思わせるものが多かったし、操縦席は大型飛行機のコックピットを思わせるものが中心でした。

しかし、ヤマトの登場がそれを一変しましたが、宇宙艦は泰然自若として、複雑なうごきをすることはなくなりました。
そして、艦橋は広々とし、担当者が各々のモニターやパネルをのぞき込みながら操作をおこなうというスタイルが確立しました。
さらに、宇宙艦自体に上下左右が明確にデザインされるようになりました。つまり、宇宙を海として描くようになりました。

そして、それは後の作品に計り知れないです影響を与えたのです。
たとえば、コンピューターシミュレーションゲームのひとつの定番に宇宙を舞台に艦隊戦を繰り広げるものがありますがそのほとんどが、宇宙を海に見立ててているし、メカニックデザインはヤマト的なブリッジと主砲を持って前後に細長い宇宙艦が中心となっています。
ニックネーム 宇宙戦艦ヤマちゃん at 21:37| 戦艦について